講釈の高座は、江戸の講釈師伊東燕晋が奉行に対し「軍書講談を演舌する我々は・・・聴衆と同席に居並びて述ぶるは恐れ入りたる事に御座れば、一段と高座を設け・・・」と述べ、立・横・高さ各三尺の高座の図案を提出。許可を貰ったとある。燕晋は天保十一年没であり、この説が定説となっている。私はこの説はとらない。上方の講談は、浄土真宗系の説教話芸の影響を受けており、今でも近畿、北陸の古い寺に行くと、立横、高さ各三尺で、上部に畳、半畳がはめこまれている説教用の講座と称する物が残っている。これが講釈に転用されたものであろう。二代目南陵が昭和初期まで経営していた松島日の出席も、この高座が残っていた。江戸の高座もこの影響と考えた方が自然である。