人権参考記事

●私の視点(2001年4月8日 朝日新聞 朝刊)
女人禁制/根底に潜むケガレの思想

大相撲の土俵への女人禁制に対して、作家の内館牧子氏のように、伝統文化論で賛成する方のほか、男女平等論で反対する方、中にはどうでもよろしいと無視する方、といろいろあるようです。

しかし、土俵への女人禁制の奥にひそむ重要な問題―日本の社会の基層に巣くっている、ケガレという思想にもっと目をむけなければいけないと私は思っています。このケガレの思想こそ、ありとあらゆる差別を生みだしたと言っても、過言ではありません。

民俗学者、宮田登氏の著書「ケガレの民俗誌」(人文書院)の一節に「女人禁制の支えというべき女性浮上観の原点には、血穢(けつえ)に対する生活意識があることは、これまでの民俗学の成果からも明らかにされている」という表現があります。

この部分を避けては、女人禁制は論じられないのです。土俵を神聖化し、土俵に女性をあげないのは、まさにこの血穢、血のケガレの思想にもとづいているものです。

伝統芸能に身を置く私は、伝統文化にも守るべき正の遺産と、さっさと捨て去るべき負の遺産の二つがあると考えています。血穢の思想は捨て去るべき負の遺産であります。

江戸時代、富士山は女人禁制でしたが、富士講の人々は、教義の上からも女人の血穢を否定し、女人禁制を解きました(同書から)。皮肉なことに 、女性の最初の登山は、大相撲で谷風や雷電と言う名力士を輩出した、寛政時代でありました。今では、富士山に女性が登ってもだれも何とも思いません。伝統の負の遺産は捨て去ってこそ、正の遺産が生きてくるのです。

何も太田房江大阪府知事は、女性も土俵へあがって男性と相撲をとりましょうと呼びかけているわけではありますまい。単に優勝力士を表彰しますというだけでしょう。それを、土俵は神聖な所と否定するのは、子供じみた行為です。しかし、太田知事も、しっかりケガレの思想でもって相撲協会に対処していたならば、あっさり相撲協会に寄り切られることはなかったでしょう。

歌舞伎やOSKや宝塚歌劇を例に出して、女人禁制を肯定する人がおられますが、舞台には男も女も立っています。守るべきは、男のみ、女のみで演ずる芸能であって、舞台あいさつに女人禁制、男子禁制なんて言う人はいないでしょう。それどころか、以前、大阪松竹座の歌舞伎で中村吉衛門さんが出演する「松竹梅湯島掛額」の「吉祥院お土砂の場」で、劇場の係員にふんした女優さんが舞台にあがっていたのを私は客席から見ました。

血のケガレの思想が多くの差別を生んだ現実に目をやり、血穢の思想を葬り去ることに協力するのが、相撲協会のあるべき姿ではないでしょうか。

もし、そうではない、別の思想で土俵を女人禁制にしているのなら、来年の大阪場所までに、太田知事にその思想を示すべきでしょう。

土俵だけでなく、みこしに女は触るな、だんじりに女は触るなと言っている皆様、神さんはそんなことでは怒りません。女性への不浄意識を助長させたのは、仏教にある浄穢観なのです。

●旭堂小南陵 ちょっと講釈申し上げる(2002年3月19日 新聞)
女性禁制と府知事「大相撲 知事表彰中止の気骨を」

知人の招きでお水取りに行った。例の松明見物の後、二月堂の内陣の前の広間に入れるというので堂の入り口へ行くと、広間は礼堂と呼ばれ、女人禁制と言う。一緒に行った女性達は、外の格子戸越しの見物しか出来なかった。
私は内陣の錬行衆の声明を聞きながら、この格子戸一枚の結界に何の意味を持つの持つのであろうかと考えた。
そもそも女人禁制とは、血穢すなわちけつえの思想に由来するものだ。死穢、血穢、産穢のけがれの思想こそ、日本の社会に巣喰う差別の根底に流れるものである。
寛政時代に富士登山の女人禁制を打破した富士講の男達に比べて、何とこの宗派は劣っていることよという思いにかられた。
だからこそお水取りの過去帳を読む際に、頼朝から数えて十八人目に「青衣(しょうえ)の女人」という亡霊が現れて、何故私を過去帳に読まんのじゃと怒ったんだなと、妙に合点を致した次第。東大寺は、格子戸一枚の内外を考えるべき時が来ている。

女人禁制といえば、大相撲の土俵だ。今年も太田房江知事は、相撲協会に寄り切られたなんぞと言う見出しが、新聞紙上に躍った。力士の表敬訪問に、にやけてる場合ではなかろう。大阪府は予算がないのだから、女性差別をしている以上、府知事表彰は中止すべきなのだ。税というものの、性質を考えても中止が妥当であろう。

今年の正月場所の四日目のこと、栃東対朝青龍戦で、栃東は激しい突っ張りで鼻血をボタボタと土俵に落とした。行事が中に入り、相撲は一時中断した。この時、三保ヶ関親方は「相撲と言うのは、土俵での血をきらいますから」と言うような発言をし、それをNHKのアナは「血のけがれを清めるために、塩をまくんですね」と応答。NHKのこのアナは、血穢とは何を意味するのか、わかっていないなぁと、思った記憶がある。
この三保ヶ関親方の発言こそ、土俵の女人禁制は、血穢の思想から由来していることを、雄弁に物語っている。

 歌舞伎の舞台に、女優が立つことは、いくらでも例示できる。又、大道具に女性がどんどん進出して、歌舞伎の舞台を支えてくれている。だから歌舞伎を例にしての女人禁制論は、展開できない。
又、神道に基づいているからというが、女人の神官はいくらでもいる。第一、柄杓で水をすくって、直接口にあてがって口を清めるなんて作法は、神道にはない。手のひらに水をすくいとるのである。自らが神道の作法をねじまげて、何が女人禁制だ。
府知事は、大阪を知らん人やでと漫才でやゆされているのをご存知なかろう。人気挽回のためにも、気骨を示しなはれ。

●リバティ(2002年10月 広報誌)
新しい常設展示に期待するもの

人権問題に関わられた動機は?

 私は堺市の出身で、父親は校区の小学校には被差別部落の子どもが登校するからといって、僕を越境入学させました。当時、越境先の学校から帰ってきて近所の子どもと遊んでも「べったん」や野球のルールが全然違うんです。悲しい思いをしました。この嫌な思いが反面教師として部落問題に目を向けさせていったのです。また、僕が講談師としてプロ入りする際にも、父親から「『河原乞食』にするために大学にやったん違う」と言われたんです。一九〇三年生まれの人は、芸人をそう見てたんでしょうね。幼少からのさまざまな心の傷が「差別を無くしていこう」と人権問題に向けさせていったんではないでしょうか。

全国水平社創立八〇周年記念集会での講談「水平社結成物語」で伝えようとしたものは?

 物語の根底は「逃げてはならない」です。西光万吉や阪本清一郎らは、差別から逃避するために南方(現スラウェシ島)への移住を計画しましたが、最終的には柏原に帰ってきました。「差別は闘ってなくさなあかんのや」という結論に彼らは達したんでしょう。ですから、差別は闘ってなくさなあかんということを伝えたかったんです。

人権問題をどのように訴えていこうとお考えですか?

 「芸能ってすごいなぁ」と思ったのは、阪神・淡路大震災の時でした。震災で落ち込んでいる時に楽しい音楽や話を聞くと、生きる意欲が湧いてくるんです。人の生きる糧を沸き起こさせるのが芸能やと思っています。
実は、その芸能を奏でるための道具を支えているのが部落産業であったりするんです。例えば、三味線奏者は人間国宝に認定されるけども、三味線皮のむし職人は、人間国宝どころか動物愛護団体などからバッシングさえ受けるんです。こんな理不尽な社会に目を向けてほしいですね。二一世紀は文化の時代と言われますけれども、芸能を支えている太鼓作りや三味線の皮をむし張る職人への理解を高める必要性を感じます。

常設展示の感想は?

 「被差別部落と身分」のコーナーにある「雪駄直しを描いた錦絵」には、雪駄直しだけでなく「河原乞食」である役者と「非人」である鳥追いが描かれていますが、こちらもしっかり説明する必要があります。この錦絵の説明では「かわた」身分だけをとらえているようですが「かわた」身分の雪駄直しをはじめ非人の鳥追い、「河原乞食」の役者という当時、差別の対象とされていた人物を錦絵の題材にしているんです。また「性と家族」のコーナーの女人禁制については、生活の中から感じ取りやすくするために大相撲を例に挙げればいいんじゃないですか。ある年の優勝決定戦で、貴乃花が武蔵丸を破りましたよね。あの時のマスコミの騒ぎ方をみると、武蔵丸は負けざるを得ないでしょう。怪我をしている責乃花と取り組んで武蔵丸が力の限り闘っていたら、おそらく勝てたでしょう。しかし、勝利したときの外国人力士へのバッシングがあったと思います。また、今年の一月一六日、栃東と朝青龍のつっぱりあいで栃東が土俵へ鼻血を落としましたね。その時に、三保ケ関親方が「相撲というのは血を嫌いますからね」という発言に対し、アナウンサーが「血の穢れを清めるために塩をまいたりするんですね」と。これは明らかに血穢です。こういった身近なことを素材にして展示していくといいのかなと思います。

新しい常設展示に向けて期待するものは?

 現在の問題を敏感に感じ取りしっかり取り上げてほしいです。差別は、まだまだあるんだということを訴えられる施設にしてほしいと思います。また「西光万吉記念室」は基礎知識のない来館者にはちっともおもしろくない。何のために独立の記念室にしたのかが表現しきれていないと思います。西光万吉が履いた靴だとか、彼が使用した本棚だとか、ただ資料を羅列するという手法はやめた方がいいと思います。知っているということを前提にした展示ではなく、知らない来館者に「部落がなぜ差別されてきたのか」「芸人はなぜ河原乞食と呼ばれてきたのか」「女性が中心であったはずの祭礼が、いつの間にか男性へ移行し、ついに女人禁制となったのはなぜか」など、差別の根本を明確に表現してほしいです。
子どもの心は真っさらです。その真っさらな心に差別心を植えつけるのは大人です。子どもが来て差別することの罪の深さ、いやらしさ、馬鹿々々しさ、理不尽さが素直にわかる展示であってほしいのです。祭礼の紅白の幕と血穢、葬式の鯨幕と死穢、清めの塩など日常生活にある差別に由来するものを子どもたちにわかりやすく説明してほしいですね。また、身体障害だけでなく、心に障害をもつ人とどう向き合うのかも新しい常設展示の一つのテーマだと思います。

(二〇〇二年八月九日談)

●芸能文化と人権(2003年6月30日 ヒューパワー)
大衆芸能に対する差別意識

お話は、今からざつと三十五年前のことです。私は、講談師のプロになることを決心致しました。父にその旨を言ったとたん、父は信じられない言葉を吐き、烈火の如く怒りました。
「お前を河原乞食にするために、大学までやったんと違うぞ。芸人に身を落とすアホが、どこにいるんや」
 ふだん漫才や落語を見てアハハハと笑い、講談や浪曲を聞いて、その名調子に感心していた父が、この言葉を言ったのです。その後、色々と工夫をして説得しましたが、そのプロセスで、一度刷り込まれた差別意識はなかなか抜けないと言う事を、実感しました。
一九〇三年生まれの父親には、芸人は河原乞食であり、身を落とす身分でしかなかったのでしょう。誰かがこの差別観を椙えつけた のです。子どもの心に、大人が植えつけていくのです。社会全体と言いかえてもよいかもしれません。自分達は、芸能文化の果実をほお張りながら、自分の子が芸人になるとなると、とたんに差別意識が頭をもたげてくる。この構図は、ビフテキを食べていながら、食肉加工業者を差別するのと同じ構図です。
 今、若い人達に私の経験を話しますと、
「芸人は、僕等あこがれの職業ですよ」
 と信じられない顔をする。
しかし、そうだろうか、週刊誌なんかを見ていると、○○は在日だとか、在日と日本人の間に出来たとか、本人の芸と関係のないことを、人権スレスレで書いているではないですか。性同一性障害者に対しても「誰が本当の女性でしょうか、誰が本当の男性でしょうか」と、平気でTV番組で取り上げているではないですか。
 確かに大衆芸能に対する差別意識は、希薄になってきました。あこがれの意識で漫才界に入り、親もそれを喜んでいるようです。しかし、一度スキャンダルを起こすと、待ってましたと芸人に牙をむくのも、確かな事です。希薄になったのは、差別と闘った先人がいたからです。その事を、弟子達にはキチンと伝えようと思っています。

●解放新聞(2003年7月14日 新聞)
通りゃんせ考

『放送禁止歌』という本が、2000年7月に解放出版社から出版された。その本が光文社から文庫本化された。加筆修正された文庫本を、新幹線の旅の徒然に読んでみた。著者の森達也さんの部落差別への憤りなどが伝わってきて、好著だと思った。
しかし、ただ一点だけがひつかかった。それは「通りゃんせ」にたいする解釈である。著者というより、世間全般が誤解しているのではないかと思った。ひっかかった文章が、某局の番組審査室の担当者との会話のなかに出てくる。

 「手っ取り早く言えば、東京と大阪です。例えば『かごめかごめ』や『通りゃんせ』は、東京では問題なくても大阪では放送できない」
「なぜですか」
「部落問題に抵触すると聞いています」
「:・・:初めて聞きました」

 また、別の章で部落解放・人権研究所での友永健三・部落解放・人権研究所所長と著者の会括のなかにもあった。

 「しかしそんなこと、誰にも本当のところはわからんのと違いますか」
友永所長は陽気にいう。
「『通りゃんせ』の″行きはよいよい帰りは怖い″というフレーズが、部落への一本道を歌っていると僕は聞きましたけれどね。それが正しいか間違っているかなんて誰も証明できないことですよ。『ほたる』もおんなじことやろうね」
メディアは部落差別を歌っているという理由で『かごめかごめ』や『通りゃんせ』を排除していると同書にある。
ちょっと待ってほしいと私は思う。部落の一本道なら、なぜ帰りだけ怖いのだ。行きも帰りも怖いとしなければ、理屈が通らないではないか。差別意識をもって悪意に作詞したなら、行きも帰りも怖くしなければならない。

詞の意味に2つの解釈

私が遠い過去、この詞の意味は二つの解釈があると聞いた。おそらく中学の国語の先生ではなかったかと、記憶している。これは怖しではなく「強し」である。強しと書いてこわしと読む。
強しの一つの意味は、けわしいという意味である。念のため広辞苑をひくと「こわし、けわしい、坂のこわきを登り侍りしかば」という文例もあった。
天神様の細道のモデルは、全国に数か所あるが、箱根の山中にもそのモデルがあり「行きは坂道の下りであるのが、帰りは登りになる。ここから行きはよいよい帰りはこわいとなるのである。
もう一つ教えてもらった解釈は、やはり強しであるが「この子の七つのお祝いに」テクテクと山道を歩いたり、お百度を踏んだりするので、帰りは足がカチンカチンにかたくなってしまうのである。強しはかたいの意味がある。今でも「プレッシャーで体がカチンカチンに強張った」といういい方をする。行きは元気よく、よいよいと行くが、帰りは体がかたくなってこわいよ。こわいような状態になるけど、通りゃんせ通りゃんせなのである。
いったいいつ頃からこの強いが怖いになり、部落の差別歌と解釈されるようになったのか、私にはそっちの方が差別の歴史を知るうえで重要な気がする。
怖いの解釈が固定化すると、これでは部落は怖い、部落の人びとは怖いという観念を、部落外の人びとに植えつけるだけではないか。たとえば大人が子どもに「この通りゃんせの意味は、部落が怖いという意味だ」と教えたら、その子どもは「部落は怖い」と思いこみかねない。
種じゅの採譜例の本を読むと、採譜者自身が、こわいを怖いと表現しているが、これは採譜者自身の先入観のなせるところではないのか。関所説、城中に年一度通れる天神社があり、帰りは門番が怖いからという説もあるが、行きはよいよいで、なぜ帰りだけが怖いのかさっぱりわからない。
怖いという解釈だけにこだわり、これを部落差別の歌と決めつけるのは、少し軽率な行為のような気がする。部落は怖いというイメージを作りあげてしまうからである。
私は「強し」の解釈に軍配をあげたい。本居長世が手を入れた「通りゃんせ」以前は、もっと素朴な歌のような気がするが、さらに詳しくご存じの方があれば、ご教示願いたい。そんな思いで寄稿しました。

●芸能文化と人権②(2003年8月31日 ヒューパワー)
講談の嘘、現代の嘘

「講釈師見てきたような嘘を言い」という川柳がある。講釈師は、ほんまにようけ嘘をついて、世間の人をだましてきました。徳川家康は大坂夏の陣の時に、葬式駕に乗って堺方面へ逃走、後藤又兵衛に駕ごと槍で突かれて死んだ、と上方講談にある。
 この嘘はついに本当となり、堺の南宗寺に家康の墓が出来、日光東照宮博物館と記憶しているが、そこには家康が乗っていた葬式駕が展示されていた。
 豊臣秀頼を殺すのは残酷だと思ったのか、太閤びいきの浪花っ子を喜ばせるためか、講談師は、真田十勇士と共に薩摩へと落ち延びさせてやった。鹿児島には秀頼の墓があり、十年ほど前、埼玉から秀頼の子孫と名乗るKさんが、私のところへやって来た。
 こんな嘘の裏には、庶民の願望がほの見えて嬉しくもある。しかし、現代の嘘には毒があるように思えて仕方がない。例えば焼肉のホルモンである。料理史研究家の奥村彪生氏が、オムライスで有名な北極星の昭和十二年のメニューを発見。そこには、内臓料理を医学用語のホルモンと洒落て、ホルモンと書いてあったのだ。後に評判となり登録商標としたのだが、この発見はもう十年も前のこと。これでホルモン語源鋭は決着がついたと思っていたのだが、いまだに、放る物、すなわち、ほかしたもんを、在日コリアンや部落の人達が食べていたとする説が横行している。
 一体、誰がドイツ語のおしゃれなネーミングを、ねじまげたのか。しかも差別に満ち満ちた方向にだ。差別される側が、卑下して言ったのか、それとも差別する側が言い出したのか、私にはその方が問題のような気がする。
 臓物(ぞうもつ)の名残りが、モツ料理として今もある。九州ではA種B種の種別から、ビッシュと言う。これはまだ理解できるが、放る物を食べていたからと言う説は、主体がどちらでも不愉快である。この説を聞いたら、直ちに打ち消してほしいと願う。
 家康が堺で殺され、秀頼が薩摩で生きていたという説は、打ち消さないでほしい。私の商売にさしつかえ
ますから・・・。