皆様へ

師匠のお通夜、お葬式、無事に終わりまして、
師匠を送り出すことができました。

糖尿病と思っておりましたのに、
7月初旬に膵臓癌が発覚し、見つかった時にはもう色んなところに散らばってる状態で、日に日に驚くくらいの速さで進行し、その報告が入り、化学療法でなんとかする、それは出来ない、身体の方がもたない、病院からもう出られないかもしれない、コロナでお見舞いもご親族でも5分だけ、見舞いに行けるか、しんどくて見舞いも断わってる、師匠にもう会えないのか、23日の国立文楽の独演会はやるつもりでいてはる、出来るのか、師匠のメッセージだけでも病室から電話でつなぐ、無理かもしれない、ギリギリで1席電話で音声のみでしはる事が決定、当日出番直前、2席される事がわかる。

『2席、しはるんや。。。』

こみ上げるものがありました。

無事に師匠はしんどい中で命をかけての2席、しっかりとつとめられはりました。

舞台には高座、照明の明かり、旭堂南陵のナビラ、
響く力強い師匠のお声、

舞台の袖でその響く師匠のお声を聴く者。

客席には師匠のお顔のモニターは映しませんが、少し痩せた顔を師匠は見せたくなかったのでしょう。車椅子に乗りながら、時折痛い腰をさすりながら、病室から力強いお声で講談を2席、40分くらいでしょうか、されるお姿を皆で控え室で、そのモニターを弟子一同食い入るように見守っておりました。私達もこれが師匠が講談をされる最後のお姿かもしれないと口には出しませんが、感じておりました。

客席ではすすり泣く声も聞こえたそうです。

師匠は、最後の演目をされる前に
『今生の別れになるかもしれませんが…』
と仰ってから演目をされました。

堪らえてた涙がこぼれ落ちました。

そして、お時間となり、弟子一同心を込めて舞台袖で

『おじかーーーーーーーーーーーーーーーん』

東京の神田鯉栄先生が最後の太鼓を叩いてくださいました。

師匠は弟子と話す間もなく、病室に車椅子でお戻りになり、

順番にまた来たらええがなと
伝言があり、

病院からご自宅に戻られるかもしれない、
師匠にお会い出来るかもしれない、
でも病院から無事に家に戻って来られるのか、
という中、

ご自宅に戻ってこられましたが、
しんどいから誰も来てくれるな
との事で、とうとう会えず、

ご家族に見守られながら、旅立たれ永眠されました。

やっとお会いできました師匠のお顔は本当に安らかでした。
最後は苦しまず眠る様に息を引き取ったそうです。

病床では『くそーくそー』とおっしゃってたそうです。

まだまだやり残した事がたくさんあった事でしょう。
私達もあと10年は頑張っていろいろ教えていただきたかった、

師匠は死は悲しんでくれるな。と仰っていたそうで、
泣いてたら師匠に怒られそうですので、
皆と師匠の事を語りながら、お通夜お葬式を過ごしたいと思い

お通夜では、寝ずの番で、師匠の前で、弟子で交代でお酒を飲んだりして、皆で話をしました。

師匠は法善寺によく飲みに連れて行ってくださいました。

最後の師匠はお花がいっぱいになって
お花畑の中の師匠みたいになってました。

お弁当も棺に入れてくれてはりました。
ええ牛肉の弁当。いかなごの釘煮。
娘さんからのリクエストでマンゴー。
きれいにカットされたフルーツの盛り合わせで
ものすごく美味しそうでした。
お箸も入れてもらって
お弁当セットと、高座の写真、いつも着てはった着物と袴姿。張り扇と扇子、手ぬぐい、いつも着物を包んではった風呂敷

師匠の棺を弟子一同で運ばせて頂き、師匠をお車へ、私達もバスに乗り込みました。

出棺の時、露の新治師匠が

『南陵!!』の掛け声、バスに乗っていても聞こえて涙がこぼれ、嬉しかったです。

拍手に包まれながら、師匠は旅立たれました。

またどこかで講談をされはる事でしょう。

皆様におかれましては、急な事で驚いていらっしゃる事だと思います。心の整理のつかない方もいらっしゃる事と思います。お通夜、お葬式も密葬でしたので、少しでもどんなご様子だったのかをお伝えできればと思い状況をご報告させていただきました。

そんな中でも皆様からの心のこもったお悔やみのお言葉や励ましのお言葉を頂き、本当に心から感謝申し上げます。またお花も東京大阪全ての講談協会の皆様から頂戴いたしまして、また新しい講談界の幕開けとなりそうで、とても嬉しく心からの感謝を申し上げます。

師匠はどんな状態であっても、私達に生き様を、お手本を魅せ続けてくださいました。
最後の最後まで、師匠たる師匠でした。

これからも、師匠の思いを受け継ぎ、引き継いでいき、しっかりと前を向いて進んでまいりたいと思います。

今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。

皆様のお心、本当にありがとうございました。