講談速記本と大衆小説

明治時代や大正時代の人は、学校の文学史で習うような、夏目漱石や森鴎外等を読んでいたのでしょうか。答えはノーです。明治の三十年代頃から、貸本屋さんがブームとなりました。どんな町内にも貸本屋さんは、あったそうです。その貸本屋さんが貸していた本の主流が、速記本と呼ばれる講談の本でした。そもそもは速記者が、講談師や落語家の高座で演じていたものを速記し、それを活字化したもので表紙が派手なので大阪では赤本とも言っていました。後には、演者は名前だけ貸し、速記本や新人の文士達が、豪傑や忍者と言った話を、高座でやっているかのように書いたりも致しました。
東京でも大阪でも、各々二千点近くの講談速記本が出版され、好評を博しました。現在もある講談社という出版社の由来も、この講談本を出していたからなのです。そして、この講談本の書き手から大衆小説の書き手が現れました。その代表となる人物は、あの「宮本武藏」を書いた、吉川英治であります。
大阪では大正に入って、旧来の大人の猿飛佐助を少年像にした「立川文庫」と言う、小型本が人気を博しました。これも書き講談の一種で、類似の文庫が東西で出てきました。「大正文庫」「武士道文庫」等、数え上げればキリがありません。
しかし、この講談本が普及した事によって、人々は講釈場へ行かなくなりました。そしてこの講談本も、大衆小説にとってかわられたのです。